@article{oai:unii.repo.nii.ac.jp:00000271, author = {波田野, 節子 and Hatano, Setsuko}, journal = {朝鮮学報}, month = {Oct}, note = {application/pdf, Journal Article, 生活のために小説を書くようになった金東仁は、それでも「自分の小説」を書きたいというこだわりを持ちつづけていた。生活の安定をめざして経営をはじめた雑誌「野談」の創刊号のために書かれた『狂画師』は、金東仁が久しぶりに芸術意欲にもえて筆を執った作品だったと思われる。本稿では、金東仁が創作論で主張した方法論と、影響が指摘されている二つの英国小説『エイルヰン物語』および『ドリアン・グレイの肖像』を視野にいれて『狂画師』を読み直し、解釈のあらたな可能性をさぐつた。容貌の醜さのために人間嫌いとなり山にこもった率居は「人間の表情」を描きたいという欲求をいだいたが、描きたい対象は「母の表情」から「美女」そして「妻としての美女」 へと変わってゆく。これは彼の心の底に、孤独から逃れたい心情、とりわけ自分を受け入れてくれる女性を得たいという思いがあったことを示唆している。率居がさがしもとめる「美しい表情」の定義は曖昧である。本稿では、それは「余」=作者が泉の光に喚起されて物語を作りはじめたときに出発点とした水辺のイメージの中に存在する表情であり、このイメージ自体は金東仁が中学時代に愛読した小説『エイルヰン物語』を源泉としていると推論した。率居がついに「美しい表情」をもつ少女と出会ったときにとった不可解な行動は、彼の傲慢で自己本位な性格の発現であった。この性格のために、率居は自分を受け入れてくれる少女と出会いながら率直な人間関係をつくることができず、翌朝、いらだちを爆発させて彼女を殺してしまう。性格のゆがみがひき起こしたこの暴力に、金東仁は『ドリアン・グレイの肖像』から想をえた芸術至上主義的憤怒という理由を接ぎ木させたのである。}, pages = {87--133}, title = {『狂画師』再読 : あらたな解釈の可能性およびイメージの源泉について}, volume = {173}, year = {1999}, yomi = {ハタノ, セツコ} }