@article{oai:unii.repo.nii.ac.jp:00000258, author = {波田野, 節子 and Hatano, Setsuko}, journal = {朝鮮学報}, month = {Jul}, note = {application/pdf, Journal Article, 金栄敏は、『韓国近代小史』(一九九七)と『韓国近代小説の形成過程』(二〇〇五)で、李光洙が『無情』を最初に国漢混用文で書いてから連載直前になって純ハングル文に変えたと推論した。本稿は金栄敏のこの推論を出発点としている。第1章で、金栄敏のこの推論を詳しく検討して、当時の韓国社会に存在していた表記の二重状況について考察する。第2章では、李光洙が意識的にハングル表記を用いるようになったのは、上海亡命から帰国して短編「嘉実」を書いたときからであったという事実を、あらたに発見した資料によって示す。それでは李光洙が『無情』を国漢文で書いた原稿をハングル表記に直したのは誰なのか。本稿では、当時『毎日申報』の編集局長格だった中村健太郎ではないかと推論する。第3章では、『無情』に至るまでの李光洙の文体の変遷をたどる。李光洙は一九〇八年に初めて翻訳した「血涙」から言文一致体への道を踏み出し、一九一〇年の翻訳「幼い犠牲」では言文一致をほとんど完成させるが、表記だけは『無情』にいたるまで知識人の表記である国漢文にとどまっていた。しかし文体については鍛錬をつづけ、『無情』の表記が新聞社の判断でハングルにとつぜん変更されても問題が生じないだけの文体を確立していたのだった。}, pages = {1--28}, title = {『無情』の表記と文体について}, volume = {236}, year = {2015}, yomi = {ハタノ, セツコ} }