@article{oai:unii.repo.nii.ac.jp:00000257, author = {波田野, 節子 and Hatano, Setsuko}, journal = {朝鮮学報}, month = {Jan}, note = {application/pdf, Journal Article, 一九四〇年七月の日本語小説「心相觸れてこそ」が中断したあと、李光洙は大量の対日協力的な論説、随筆、詩を日本語で発表したが、日本語小説は書かなかった。その彼が一九四三年一〇月、「加川校長」と「蠅」の二つの日本語小説を皮切りに一年間で通算七編の日本語小説を発表する。なぜ李光洙はこの時期に日本語小説を書きはじめたのか。一九四三年春、李光洙は息子の中学進学のために平安南道の江西で暮らし始めた。前年末には日本で大東亜文学者大会が開かれて李光洙も参加し、四月に朝鮮文人報国会が結成され、八月に第二回の大東亜文学者大会が開かれるという時期であったにもかかわらず、李光洙は「私事」のために田舎に引き籠ったのである。ところが、まもなく再発した結核のために、李光洙は京城にもどらざるを得なかった。彼が病床にあるあいだに息子は京城の中学に転校し、江西中学の関係者を失望させた。病勢が回復したあと李光洙が「加川校長」を書いたのは、江西中学の日本人関係者に詫びるためだったと思われる。このなかで李光洙は自らを、木村の転校の原因になる病弱な父親として登場させている。李光洙が戻ってきたころ、京城では学徒兵志願の強制が始まろうとしていて、戦況悪化のなかで知識人虐殺名簿の噂が飛び交っていた。李光洙は同胞の犠牲を減らすために対日協力を決意し、ついに東京で学徒兵志願の勧誘を行なうにいたる。このときに書かれたのが短編「蠅」である。年令制限のせいで勤労奉仕に出られない老人が七千八百九十五匹の蠅を叩き殺すという滑稽ながらも鬼気迫る姿には、この狂気の時代に李光洙が抱いた無念さが投影されている。}, pages = {1--33}, title = {李光洙の日本語小説「加川校長」と「蠅」について}, volume = {238}, year = {2016}, yomi = {ハタノ, セツコ} }